気づかないうちに何かを失っているかもしれないという話

6月30日,にじさんじ所属の鈴原るるが引退・卒業した。

別にショックだとか驚きだとかいうことはなかった。

私自身,いわゆるVtuberの動画や配信をしばしば視聴していたが,引退や卒業はよくある話だと理解していたし,特段彼女が好きだったとか配信を欠かさず見ていたというわけではない。

それでもふと思ってしまった。

もしかして自分は知らないうちに楽しむ機会を失ってしまっていたのではないか。

推しだとか,ファンだとか,熱狂的になることができている人間は引退や卒業にショックを受けたり,やめずに続けてほしいと願ったりするかもしれない。

はたまた,全くかかわってこなかった人間はだれが何の活動をやめようと何の影響もないだろう。

私のように,配信をたまに見ることがあったとか,配信の見どころをを切り抜いた動画を見ていたとか,中途半端な形でかかわってきた人間が一番損をしているのだ。

もう少しちゃんと関心をむけて,配信を見ればよかったなあとか。パーソナリティやってたラジオちょっとくらい聞いてみたらよかったかなとか。

まあそういった後悔をしたところで今更どうしようもない(もちろん,アーカイブ等が残っている場合もあるが)。そのときそのときで起こっていた空気感というか,あのリアリティはもう体験できない。

なにもVtuberに限った話ではないと思う。

いつか行こうと思っていたバンドのライブについぞ参加することなくバンドが解散したとか。

そのうち買おうと思っていたコンビニの商品がいつのまにか棚から消えているとか。

そういうものに近い気がする。

 

よく「推しは推せるときに推せ」という言葉を聞くが,まさにそういうことで。

付け加えるなら,こういうことだ。

「推しじゃなくても興味があるなら近づいていけ」